代表の西川征和です。
なんとなく「社長」という肩書きに抵抗があり、つい「代表」と言いがちです。
美容室なのでたまに「先生」と呼ばれることがありますが、それはさらに抵抗があります。
僕がどんな人生を歩んできたか?なんて、みなさんあまり興味はないと思いますが、もうすぐ50歳になりますので節目として今までの自分の歴史を振り返ってみようと思います。
もし興味がありましたら、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

情熱の始まり
美容師という道を語るには、少し高校時代まで遡る必要があります。
あの頃の体験がなければ、今の僕はいないからです。
高校時代、バンド活動に狂っていました。ギターをかき鳴らしながら仲間と音を重ねる時間が、何よりも楽しかったのを覚えています。
同じくらい夢中になっていたのが、シーケンサー。ひとつひとつの音を積み重ねていく制作の工程に、無心でのめり込んでいました。完成した音が流れた瞬間の達成感——「自分で何かを創る」ことの喜びを初めて知ったのもこの頃です。
将来、何になりたいのか。はっきりとした職業のイメージはありませんでした。ただ、漠然と「音楽に関われる人生だったらいいな」と思っていた。そんな折、「バンド活動と両立できる学校はないかな」と探して見つけたのが、美容学校でした。
入学を決めた直後、バイク事故で骨折するという予期せぬ出来事が起こります。ギプスを巻いた状態で通学する日々。この選択は本当に正しかったのかと自問自答した時期もありました。しかし、今振り返ると、この「事故」こそが、僕の人生の大きな転換点となったのです。

出会いがすべてを変えた
骨折をしていた僕を母が毎日送迎してくれました。
休憩時間に動きたくても動けない。
サボりたくても動けない。
そんな閉じ込められた美容学校の教室で、何気なく手に取った一冊の美容業界誌——『しんびよう』。
その誌面に掲載されていた、とある美容師の作品を見た瞬間、胸が高鳴るのを感じました。
「自分も、こんな髪型を作ってみたい」
その瞬間、美容師という仕事が、はじめて“憧れ”として自分の中に姿を現しました。
音楽と同じように、「創る」ことへの情熱が、美容という新しいフィールドで再び灯りはじめたのです。
骨折が治った時、美容室でアルバイトも始めました。現場の空気感、スタッフの真剣な姿勢、お客様が鏡の前で見せる笑顔。
そのすべてが新鮮で、心がどんどん美容の世界に引き込まれていくのを感じていました。
その勢いのまま、親友を追うようにして上京。
けれど、まだこの頃は、心のどこかに音楽の存在が残っていました。ギターとシーケンサーの余韻を引きずるように、美容と音楽の間で揺れ動いていた時期でした。

現実とぶつかりながら、学んだこと
東京での生活は、思っていたよりも早く終わりを迎えました。
心のどこかで音楽への未練を抱えたまま、地元へ戻り、田舎のサロンに就職することになります。
今思い返せば、当時の僕は本当に“ありえない”スタッフでした。
ズル休みをし、接客中も笑顔一つ見せず、かろうじて小さな声で「いらっしゃいませ」と言うだけ。
サロンに立っているのに、どこかアーティスト気取りで、“お客様のため”という意識がまるでなかったと思います。
自分が経営者だったら、間違いなくクビにしていたでしょう。
当然ながら、毎日のように怒られました。
今振り返ると、それだけ本気で育てようとしてくれていたのかもしれません。
そんなある日、車のないお客様を自分の車で迎えに行くことがありました。
「まあ、気分転換にもなるし」と軽い気持ちで引き受けたのですが、
お客様はとても嬉しそうに「ありがとう」と言ってくれて、予想以上に喜んでくれたのです。
そのとき初めて、接客業という仕事の本質に触れた気がしました。
「喜んでもらう」ということ。
技術でもカリスマ性でもなく、目の前の人のために動くこと。
そこに、美容師としての原点があるのだと気づき始めた瞬間でした。

腕試しのつもりが、本気の挑戦に
田舎のサロンでの日々は、本当に楽しいものでした。
あれほど夢中だった音楽のことも、いつの間にか考えなくなっていました。
気がつけば、美容師という仕事が自分の中にしっかりと根付き、「これで生きていくんだ」という感覚が芽生えていたように思います。
鳥取市内から通ってくださるお客様も少しずつ増え、若いお客様の姿も目立つようになってきていました。
そんなある日、ふと目に留まったのが「新店舗・オープニングスタッフ募集」の広告でした。
「市内で、自分の技術がどこまで通用するんだろう?」
そんな軽い“腕試し”の気持ちで、新しくオープンするサロンの立ち上げに参加することを決意します。
「心機一転、やってみるか」——そんな気持ちで飛び込んだこの一歩が、後に人生を大きく動かす転機となるのです。
新しい環境は想像以上に順調でした。お客様にも恵まれ毎日が充実していくなかで、自然と自信が芽生えていきました。
「もしかして、自分でもやれるんじゃないか」
そんな思いが次第に強くなり、やがて独立への意志が固まっていきます。
今思えば、少し調子に乗っていたのかもしれません(笑)。
でも、その勢いこそが、自分の看板を掲げる原動力になったのは間違いありません。
「どうせやるなら、一番の場所でやりたい」
そう思って選んだのが、当時最も勢いのあるサロンが集まっていた鳥取駅前でした。
サロン名は「air」。
当時主流だった「ヘアメイク⚪︎⚪︎」や「美容室⚪︎⚪︎」といった言葉はあえて使わず、シンプルに、でも印象的に。
電話帳の時代だったので最初にくる「あ行」を選択。
店内も、従来の美容室にはないような、こだわり抜いたおしゃれな空間に仕上げました。
いよいよ、自分の名前と覚悟をかけた、本気の勝負が始まったのです。

人と組織に目を向けるようになったきっかけ
美容室をオープンして間もない頃、ある大学生の男の子と話す機会がありました。
その時、彼がふと口にしたひと言が、今でも忘れられません。
「僕も、美容師になりたかったんです。」
驚きながら、思わず聞き返しました。
「どうしてならなかったの?」
すると彼は、
「父親に、“そんな遊びみたいな仕事やめとけ”って言われたんです。」
僕は、言葉を失いました。
ショックだったし、悔しかったし、情けなかった。
何よりも、自分の中に少しだけ『そうかもしれない』と思ってしまう感覚があったことが、一番のショックでした。
僕は、美容師という仕事は素晴らしい仕事だと思っています。
人の人生に関われる。人の心を動かせる。こんな仕事、他にないと思っています。
でも――。
世間が抱く「美容師」のイメージは、残念ながらネガティブなものが多いのも事実です。
- チャラチャラしてそう
- 休みが少なそう
- 労働時間が長そう
- 社会保険などの福利厚生が整っていなさそう
- 年収が低そう
そんな業界の現状を前にして、果たして「自分の子どもが美容師になりたい」と言った時、胸を張って背中を押してあげられるだろうか?
その日を境に、僕の中で「経営者」としての意識が大きく変わり始めました。
「技術があれば店は回る」と思っていた自分の考えを、根本から見直すきっかけになったのです。
当時の僕は技術の勉強はしても、経営の勉強はしたことがありませんでした。
決算書もよくわからないので、そもそも見ない。
給与基準も「なんとなく」
全部勢いだけでやっていました。
いつの間にかスタッフも増え、お客様も増え、その勢いのまま2店舗目の出店を決意。
しかし、思ったようにはいかず、大きな壁にぶつかります。
「今のままじゃ、続けていけない」と、初めて痛感しました。
美容室を“組織”として成り立たせるにはどうすればいいか。
安心して働ける環境をどう作っていけばいいのか。
そこから、僕の本格的な「経営の学び」が始まったのです。

突然すべてが止まったあの日
それは、とても穏やかな朝でした。
目を覚ますと、そこには見覚えのない白い天井。
口には人工呼吸器、体中には何本もの管が繋がれていました。
記憶は、前日の夜で止まっています。
胸に激しい痛みを感じ、念のため救急外来へ。
「胸が痛いんですけど」
そう言ってベッドに横になった、まさにその瞬間――
心臓が、止まりました。
慌てた医師がAEDを使用し、僕は緊急のカテーテル手術を受け、一命を取り留めました。
目を覚ました場所は、病院の集中治療室。
もし、あの夜、「もう少し様子を見よう」と自宅に戻っていたら…。
今の自分は、もうここにはいなかったかもしれません。

自分がいなくても、会社がまわるように
病室のベッドの上で、ただ一点、頭に浮かんだのは――
「自分がいなくなったら、会社はどうなる?」
当たり前のように日々をこなし、当たり前のように決断し、スタッフの前に立ってきたけれど、
その「当たり前」は、すべて“自分がいる”ことが前提だった。
倒れて初めて、自分がすべてを抱えすぎていたことに気づきました。
そこからです。
「自分がいなくても回る会社」にしなければならない、という強い意識が芽生えたのは。
- 権限移譲
- 教育制度
- 情報共有の仕組み化
- 数字や方針の“見える化”
技術とは全く別の“経営の壁”に、僕は本格的に向き合い始めました。
最初は正直、戸惑いの連続。でも、これが未来の仲間たちのためになると信じて、一歩一歩積み重ねていきました。
そして少しずつ、組織は「自分が指示しなくても動く」状態に近づき始めたのです。

サロンから離れ、視野が広がった時間
「自分がいなくても回る組織をつくる」
そう決めて動き出した頃、ある方から青年会議所(JC)への入会を勧められました。
それまでの僕にとって、経営者の世界といえば“美容業界の中”だけ。
それが当たり前だと思っていました。
JCでは異業種の経営者たちと出会いました。
話す内容も、見ているスケールも、発想も、すべてが違う。
「自分の常識は、業界の常識でしかなかった」
その事実に気づかされる毎日でした。
好奇心のままに、参加できる会にはすべて参加しました。
地元の活動に加え、全国組織である日本JCへの出向も経験。
そこでは地方・都市問わず、各地で奮闘する経営者たちと出会い、さらに刺激を受けました。
青年会議所を卒業後は、商工会議所青年部(YEG)へ。
ここでも同じく、参加できるものにはすべて参加。
「もっと多くの価値観に触れたい」「もっと広く、深く学びたい」――
そんな思いが、次々と自分を行動へと駆り立てていきました。
その結果、サロンにいない時間も増えました。
スタッフには少なからず負担をかけたかもしれません。
でも、この時間があったからこそ、
「技術者」から「経営者」への成長が加速したと確信しています。
目の前のサロンだけを見ていた頃には考えられなかった視点。
数字の捉え方、人材の育て方、組織の在り方、地域社会との関係性…。
すべてがアップデートされていくのを感じています。

人生の証として、シザーを遺す
青年経済人として歩んできた時間も、いよいよ終わりを迎えようとしています。
今年が、YEG(商工会議所青年部)での最後の年。
これまで多くの学びと出会いを与えてくれたこの場所にも、別れの時が近づいています。
そんなタイミングで、祖父と祖母がほぼ同時期にこの世を去りました。
改めて「死」というものに向き合い、自分自身の最期を想像するようになった時――
ふと「自分の骨壷に、何を入れるだろう?」と考えました。
その答えは、“シザー”。
僕の人生において、美容師という職業は、もはや切り離せない存在です。
ギターに夢中だった高校時代から、何となく飛び込んだ美容の世界。
気がつけば、美容室という場所で多くの人と出会い、数々の経験を積み重ねてきました。
そして、美容室の経営者として、人と組織と向き合いながら生きてきました。
だからこそ、僕にとってシザー”は、生きた証そのもの。
それは「働いた道具」というより、「人生を切り拓いた象徴」なのです。

次の世代に、何を残せるか
時代は大きく変わろうとしています。
AIやデジタル技術の進化で、あらゆるものがバーチャル化していく中、
美容師の仕事だけは、どこまでもアナログで、人の手でしか提供できません。
その一方で、少子化によって美容師のなり手は年々減少しています。
でも僕は思うのです。
だからこそこの仕事は、これからもっと価値のある職業になるべきだと。
そのためにも、僕たち経営者がすべきことは一つ。
「正直者がバカを見ない会社」をつくること。
人を育てることに時間をかける。
真面目に取り組んだ人が報われる仕組みをつくる。
夢を諦めずに挑戦できる土壌を整える。
そして、次の世代が「美容師になりたい」と胸を張って言えるようにする。
それが、僕が経営者として目指したい未来です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。
西川征和